『光瀬 龍の「東日流外三郡誌」考』から

引き続き、旧作の再掲載してます。
プロバイダ変更に付、下記のアドレスは削除されているかも知れません。
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『光瀬 龍の「東日流外三郡誌」考』から
作成日時 : 2007/08/17 14:27


わたしが、「東日流外三郡誌」(つがる そと さんぐんし、と、読む)という、本=文献のことを知ったのは、1989年8月発行(平成1年)の、作家 光瀬 龍 の「歴史そぞろ歩き」(大陸書房)という、文庫本で、あった。
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光瀬 龍は、知る人ぞ知る、SF作家である。勿論、わたしの人生観に大きく影響した作家である。と言うのは、多感な中学~高校時代~青年期にかけての愛読書の作家であったからだ。
この辺は、光瀬シンパはわかると思う。
まぁ光瀬に関しては、又書く事もあるだる。

さて、この本は、「歴史読本」「歴史と旅」「プレジデント」等に掲載された、歴史読み物(本屋では、古田武彦本はこの「歴史読み物」カテゴリーに陳列している。「歴史学」カテゴリーでは、古田仮説を全く考慮してない新刊本が、誤謬を拡散している)が、まとめられている。
昭和55年3月号~昭和63年(1989年=平成1年)6月号までの掲載分と書き下ろしの本である。

その中に、『「東日流外三郡誌」考』が、書き下ろしで、文庫頁約35頁(p259~p294)で巻末に掲載されている。

全文を、写したいのだが、そうも行かず、以下、何箇所か抜粋して、引用する。
引用文は、色で示す。

一 昭和五十年(1975年)。青森県北津軽郡市浦村役場は、『市浦村史資料篇』上・中・下三巻および年表のあわせて四巻をもって《東日流外三郡誌》(つがるそとさんぐんし=ふりがな)
を公開した。
これは、日本の歴史や文化、ひいては政治を考える上で、実はたいへんおおきなできごとであった。

村というのは、日本の行政の最末端であり、国家権力が民衆に向かって、直接素顔をさらしている所である。その村役場ーー村史編纂委員会が、国の説く歴史を正面から否定する異なる歴史書を公刊したのである。昭和二十年以前のわが国では、とうてい考えられないことである。

資料集というのは論ではなく、あくまでデーターをそろえただけというものではあるが、それはたてまえで、資料を収集、選択する段階で、編者の立場や主張が鮮明にあらわれるものである。なればこそ、昔風に言えば、この地方の官人たちが、なにゆえ中央政府にたてつくような本を出版したのか、また、それをさせるようないかなるできごとがこの地方にあったのか、深い関心がそそがれるゆえんである。(p260)


以下、青森県の簡略図が1つ。以下、津軽地方の地勢と気候と簡略な政経史と、続いて、大陸との太古よりの地勢と人類の流入史(通念の)の簡略記述がある。

《東日流外三郡誌》は、有馬(うま=引用者以下同じ)、恵留間(えるま)、奥法(おうのり)の三郡地方つまり岩木山周辺から岩木川流域の津軽平野、さらに亀ヶ岡より十三湖、竜飛崎にいたる津軽半島西側地方に関する歴史、地理、宗教、風俗などについて、三百六十八巻もの大部に詳しくまとめられたいわば資料集である。

ただし、これがまとめられたのは、実は二百年ほど前、すなわち江戸時代の寛政年間、一七八九年から一八〇一年にかけてであり、その意味では《東日流外三郡誌》は古史古伝ではない。
編者は津軽の住人、秋田孝季(たかすえ=引用者)と和田長三郎の二人である。孝季は出羽、秋田の領主秋田氏の子孫であり、長三郎は鎌倉幕府の御家人和田義盛の子孫であるといわれる。
二人は津軽地方に伝わる古文書や系図をはじめ、さまざまな伝承を記録し、さらに津軽地方のみならず、東北一円から広く日本国内各地を旅行し、調査を重ねたという。

だが、せっかくまとめられた資料集が、その内容から世に出すことははばかり多く、結局、門外不出の書として、秋田家と和田家に秘密に保管されることになった。(p267)


続いて次頁。

太平洋戦争が終わって、自由に学問を進めることができる時代になったものの、《東日流外三郡誌》の内容は、国家が公認しているいわゆる国史を根底からくつがえすようなものであり、国家権力、教育権力の前にさらすことはきわめて危険であった。いったん偽書として葬られると、再度世に送ることはたいへん難しくなる。

秋田家の火災によって原本はすでに失われていたが、和田家の写本は健在であった。昭和五十年まで和田家がその写本の存在を秘め続けたのは、やはりその内容の尋常ならざるがゆえの遠慮であった。その判断は正しかったと私は思う。(p268)


続けて《東日流外三郡誌》より、津軽地方に関する光瀬 龍の解釈引用がつづく。
そして、私が引用して知らしめる必要を覚えた所を、以下に引用する。

これを偽書とする説も多い。特にアカデミックな立場では、全く黙殺されている。偽書とする説には、それなりにさまざまな理由を挙げているが、偽書というものが成り立つのは、政治的理由か経済的理由かどちらかである。

《東日流外三郡誌》の場合、商品価値としての経済的理由は有り得ないから、政治的理由であるとして、それが成立し得るのは、政治権力の正当性を自らうったえる場合にほとんど限られる。
昔から洋の東西を問わず政権を手中におさめた者は、歴史を自らに都合のよいように書きあらためる。
政治が支配権そのものを意味する時代にあっては、その支配権の正当性が何よりも問題となる。
それゆえに『日本書紀』や『古事記』の記述の内容が問われるのである。
信ぴょう性をうんぬんするなら、《東日流外三郡誌》と『日本書紀』、『古事記』とは同一レベルと考えなければならないであろう。どちらも、おのれの正義を世に向かってうったえているのだ。

ここでひとつ考えたいことは、《東日流外三郡誌》が、三百六十八巻もの大部にまとめられ、最終的には明治四十年までその作業が続けられながら、秘書として世に埋められてしまいかねなかったという無償性の意味だ。
それほどまでして偽書を書く者はいないだろう。自らの正当性を主張する当の政権が存在していない以上、政治的な偽書を作る意味はない。

なればこそ十六世紀末に南部氏の手によって安東氏関係の史料が抹殺され、書きかえられたことにいきどおった安東氏の後裔秋田孝季と、その妹の嫁いだ和田長三郎の二人が、思い立って安東氏の来歴を調査し、それを記録しようとして始めたことが、結局膨大な資料蒐集につながっていったという成立の動機に強い説得力がある。(p277~p278)


続けて、光瀬 龍は、先年八十四歳で亡くなった自分の母親が、生前しばしば「東北に長髄彦が来でたつこと、おらだ聞かされてたもんだ」と言っていた書き、光瀬の郷里の岩手県南部の前沢地方では、「聞かされてたもんだ」は、「教えられていた」に非常に近い。と記述している。そして、《東日流外三郡誌》に書かれている事を母親が、知っていたの不思議としていて、
生前に詳しく聞いておかなかった事を悔やまれるとしている。

この事は、東北地元の伝承には、同じ様なことがあるのだろう。
赤坂憲雄の東北学でその辺りが、どの様に学問されるかは、期待していいのだろうか?
この日本国に於いて、改革すべき多くの体制の中に、「学問の世界」がある。
天皇=官僚=大学と、美しい日本の体制が、聳えている。

まぁ余談?は、きりが無いので次へ・・・・
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今回の記事は、『和田家資料4「北斗抄」十~総括』北方新社の新刊本を、購入した事で、この《東日流外三郡誌》=一連の和田家資料(寛政原本の出現=写真版本の購入も出来そうである)が、偽書ではないと見ていた、作家の記事を紹介するためのものである。

この光瀬 龍の《東日流外三郡誌》についての、記述は、1989年(平成元年)8月刊行本であり、古田武彦の『真実の東北王朝』は1990年6月刊行であり、当時の《東日流外三郡誌》に対する見方を証言する記述としては、大きな意味を持つのである。

古田武彦が、和田家資料を読み始めたのが、1988年(昭和63年)10月の青森行きの夜行列車の中というのは、古田が繰り返し講演会で話している。

邪馬壱国論における、安本教授の仮説は、古田仮説に対して、1970年台には黒白は就いていると私は見ている。邪馬壱国仮説は古田説のほうが、格段に蓋然性が高いのだ。
このことを日本のアカデミズムは、未だに黙殺している。これは、途中をすっ飛ばしていうが日本国の国力の劣化以外なんであろう。・・・劣化しつつある美しい日本で我らは息をしているのだ。

さて、《東日流外三郡誌》を待ってましたと、古田バッシングに使ったのは安本教授だけだったのか?日本アカデミズムとは、何で、誰だ?・・・・・だが、、もうこんな下らない事にかかわって時間を無駄に出来ない。
西村俊一教授のいわれる通りである。
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