邪馬壹国から邪馬臺国への書き換えは古代中国の階級表記に拠る。か?

地震列島。われらはこの島国で生活しています。
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大阪府立中央図書館前から、東の風景。

前のブログの再掲載です。一部修正補筆)

『邪馬国から邪馬国への書き換えは古代中国の階級表記に拠る。か?』
<< 作成日時 : 2014/10/01 11:17 >>
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・以下は関係ないホンの素人さんらしい疑問「邪馬台国は何処にあったのですか?」が、出ていた某Webサイトのコメント欄に私が思いのまま投稿した文章が元です。2014年10月1日)
UPされたかどうかは、分かりません。
で、若干の+-をしたものを以下↓に再録します。
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邪馬壹国から邪馬臺国への書き換えは古代中国の階級表記に拠る。
というタイトルは、このブログのために今、わたしが付けたものです。
・・・投稿コメントは↓から・・・ですが、2日以降追記修正改変しました)・・・・・・

邪馬台国というのは通称です。
日本の古事記・日本書紀・続日本紀にも記述されていません。

古代中国で、後漢が滅ぼされて中国が紀元220年三分割された三国時代の「魏の国」のことを記述した歴史書、いわゆる「三国志」の中の「魏志」の中の「東夷」の中の「倭人」の項目に記述されている国名とされていますが、↓に説明するように「三国志の魏志倭人伝の文章の中には『邪馬台国』との表記はありません」

通常は「邪馬台国・邪馬臺国」とか表示されますが、
中国古代からの各種「三国志」の版本には一貫して「邪馬壹国・邪馬壱国・邪馬一国」と刻印された版本のみ、伝えられています。

日本の皇居宮内庁の書陵部にある「三国志」完本にも「邪馬壹国」と刻印されています。

その「三国志魏志倭人」の記述には、当時、中国が支配していた、今の韓国ソウル市あたり当時の【帯方郡】から「邪馬壹国」までの道筋日程距離が、記述されています。

前後を省略しますが「不弥国に至る(略)南、邪馬壹国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月、(略)郡より女王国に至る万二千余里」と記述されています。

この行程記述の解釈の是非を理由としてで、二千年後の今日も決着が着いていないのです。
古代中国史書を読んで、その解釈に納得できない所謂学者先生たちが、それらの中国古代史書(ここに取り上げていない朝鮮古代史書も同じ)の記述が、日本史書(記・紀など)に合わない事の合理的判断を「放棄している」のです。
先の「初期ヤマト王権」などという非学術用語を掲げて、現代も尚、日本人を貶めているのです。


古代史学会・考古学学会・思想史学会等、学問理念とは別の、
学術行政思惑のカオスの只中の問題なのです。
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「古事記・日本書紀」には、邪馬壹国も卑弥呼も記述が在りません。
3世紀の中国・朝鮮など極東アジアでは、高名な女王国が記述されていませんし、卑弥呼の後を継いだ「宗女、壹與(壱与)」も書かれていません


上記の事柄は「記・紀を作成した国」の故事ではない様です。
というのも、
「記・紀」作成と同時代か、当時の最高レベルの知識の書物で、当時の日本宮廷人なら知っていなければ仕事に為らない当時の「中国書籍」なのです。知らないはずはありません。意識して、「記・紀」を編纂したことは確定的です。

その中国歴史書は、この記・紀の作成の時代とずれて過去の、或いは前代の王朝の事を、実録的に記述され成立しているのです。
成立順に以下です。選者とは編集著者と同じ様です。

・漢書地理志 の選者 班固(32~92生死年)
・魏志倭人伝 の選者 陳寿(233~297生死年)
・後漢書倭伝 の選者 范曄(398~445生死年)
・宋書倭国伝 の選者 沈約(441~513生死年)
・隋書俀国伝 の選者 魏徴(580~643生死年)
・古事記      の成立 712年
・日本書紀     の成立 720年
・続日本紀     の成立 797年

・旧唐書倭国者~ の選者 劉しゅん(887~946)
・旧唐書日本者~ の選者  上に同じ

以下に、著名な王朝通史の事柄を書き出します。

・後漢書の光武帝が建武中元2年(57年)に委奴国からの使者へ賜った印が「漢委奴国王」金印らしい(九州博多出土?)

・魏志には「邪馬壹国・女王の都・卑弥呼」(ほぼ同じ時代の編纂です)

・後漢書には「その大倭王は邪馬臺国に居る(略)歴年、王なし、一女子有り名曰く卑弥呼、年長不嫁事鬼神道(略)於是共立為王
 (注・この後漢書は↑の魏志より約100年後に編纂されていて、
    中国国内の政治風土が激変している状況を踏まえて、
    この史書を解析しなくてはなりません)

・宋書には、「倭国は高麗の東南大海の中に在り、世修貢職(古から通貢)」他、所謂「倭の五王」の事のみ

・隋書俀国伝には、「俀国(たいこく)在り、百済新羅の東南水陸三千里、於大海之中依山島而居る」「魏の時、中国に訳通(略)邪ま堆(やまたい)に都於く則、魏志の所謂邪馬臺者也」そして有名な金印の「漢の光武帝の時、使者が入朝した」とある。

また、女王卑弥呼の事を記述。またも有名な記述が在る
「大業三年(隋の年号607年)(俀国の)その王、多利思北孤の遣使が曰く(略)日出処天子が書を日沈処天子に致す、恙(つつが)無しや云々(うんぬん)」
この王は男の王で、「王の妻はキミと号す、後宮に女六七百有、太子、名付けて利歌多弗利と為す」とある

(607年は推古女天皇15年です(日本書紀)

・旧唐書には、「倭国」と「日本国」が改行して書き分けられている。
・「倭国」「古の倭奴也(略)新羅東南の大海中在り(略)世與、中国と通ず」

・「日本国」「倭の別種なり、その国日辺に在り故に以て日本と名為す、或は曰く倭国自らその名の雅ならざるを悪し、日本と改め為す、或は云う日本、旧(もと)小国、倭国の地を併せたと」
「その人(日本国の)入朝者多く自ら矜大実を以て対せず、故に中国、これを疑う」とある。

太古から通行のある倭人の国の「政治的体制」の事です。中国の倭国認識は紀元前からも含めれば、1千年近くの事実認識があるのです
朝鮮半島からの方角認識は、太古から変わりません。変わりようが無いのですが・・・

この様に「古事記・日本書紀」と各「中国史書」は、記述内容が合っていません。

極東アジアに誇れる以下の様な、倭国のトピックスも採録していません。

倭国(=古の邪馬壹国、邪馬臺国)の金印・邪馬壹国・卑弥呼・壱與・倭の五王。
俀国王多利思北孤と隋の煬帝にあてた「日出処天子が書を日沈処天子に致す、恙(つつが)無しや云々」勅書も採録していません。

倭国=邪馬台国としても、九州にあった「古から世與連綿と続いた倭国の古の女王卑弥呼の都、「邪馬壹国」が「邪馬臺国」と中国の政治的認識事情で編纂されたのです」

【倭国・「邪馬壹国」・「邪馬臺国」】と、【古事記・日本書紀・続日本紀などを編纂した政治国家】とは、別の国=支配王権の変遷があったのです。

それは、日本書紀・続日本紀が記述しているように、
・文武天皇5年の3月甲午21日、
対馬嶋貢金、建元為大宝元年、始依新令制官名位号。
対馬嶋、金を貢ぐ。建元(初めて元年号を発し施行すること)して大宝元年。
始めて新令に依りて、官名・位号を改制する。

以上の様に、
文武天皇5年目の701年を大宝元年として、文武天皇の日本国が建てられたのです。
と、続日本紀は記述しているのです。
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以下、この項、↓のAmazonで紹介の草野善彦の著書より引用p108)です。
草野善彦の記述からのコピー的な文章です。

尚、邪馬壹国から邪馬臺国への書き換えは、「最高の壹、一、壱から最下の臺」への中国の皇帝至高の思想からでしょうか?

【「臺」には最低の身分を指す意味があるようです。

古代中国の誉れ高い古典「春秋左氏伝」の記述で、
人の階級に
「王の下に公、公の下に大夫、大夫の下に士、
士の下に皁(そう)、皁の下に與、與の下に隷、
隷の下に僚、僚の下は僕、僕の下は臺」


この項、草野善彦の著書↓より引用p108】


初めて記述された魏志の「邪馬壹国」が、人と時代が変遷する中で換えられたのでしょう。

古代中国史書の体系的記述では、邪馬臺(壹)国は九州です。

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10月11日にお馴染みの「新・古代学の扉」古田武彦のメッセージの中の、張莉の論文「『倭』『倭人』について」を紹介します。以下のアドレスから読めます。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/sio/file/kiyou7/no07_03.pdf> 
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